MODERNISM/数寄屋
モダン・デザインは20世紀に発達したデザイン様式です。ウィリアム・モリスなどの近代工芸運動に遡れたとしても19世紀末。もちろん、欧州がその発祥の地です。
しかし、日本の江戸時代に確立した「数奇家」「数寄風」などの和風デザインと、欧州発のモダン・デザインとの間には、不思議な共通点、調和性が見いだされていることは、よく知られていることです。
これは、明治以降、急速に「欧化」を進めてきたわが国が、積極的にその文化を吸収し内包してきた結果だともいわれていますが、ブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と絶賛した桂離宮などは、明治以前の建築物であるにもかかわらず、モダン・デザインの観点から、欧米でも高い評価を受けていることも事実です。
GRAND ENCOUNTER
東西交流の結晶
馬上にビロードのマントを羽織って現れる…TVドラマなどで、しばしば描かれる織田信長のイメージです。
しかし、南蛮を流行のファッションとして取り入れたのは、なにも信長だけではなく、あの堅実そうな家康も欧州製の甲冑を所有していましたし、毛利元就が拡充した厳島神社の社殿には、欧州ルネサンス様式の影響があるという学説もあります。
一方、民間でも、南蛮屏風、南蛮絵図といった欧州からの輸入絵画、その複製品などがもてはやされました。海外に飛び出していった日本人も多く、東南アジアを中心に各地に貿易拠点となる日本人居留区を築き、中には現地の王朝に重用される人物も現れるほどでした。
(カンボジアのアンコール・ワットには、当時の日本人の落書きがあることが知られています。)
つまり、江戸時代が始まる前から、わが国は海外の文化、特に欧州の文化と積極的に交流していたということです。
そして、当時、欧州文化移入の窓口となったっていたのが「泉州堺」、現在の大阪府堺市です。
侘茶の様式や「茶室」の空間を確立した千利休も、この「泉州堺」で活躍した豪商でした。そして、この利休の系譜に連なるのが、江戸時代になって確立される数寄家という様式。あるいは小堀遠州などによる建築、作庭の様式です。
利休は、当時の堺にあって、何を見て、何を感じたのか…茶道という視点からは、見落とされがちなことですが、欧州発祥とされるモダン・デザインと「和風」の相性の良さは、案外、こうしたことに隠されているのかもしれません。
BEAUTY AS LACK UNIFORMITY
不定形の美しさ
下の写真は、皇居桜田門の一部を写したものです。美しい白色の漆喰壁、その櫓下には石垣が積まれていますが、よく見ると石材のひとつひとつは不定形。いろいろな形、大きさのものが混じっています。
しかも、不定形なのに隙間がない。しっかりと削り磨かれて、石と石の間には、定規一枚、挟むゆとりはありません。
この石積みの方法を「切込み接(きりこみはぎ)」といいます。石材のひとつひとつを成形してから積み上げる工法ですから、城郭建築も最高潮に達した江戸時代以降になって現れるものです。
しかし、それにしても不思議に思うのは、なぜ一定の大きさの石材を用いることをしなかったのかということです(恐らく、水平を出すのにも、一定の大きさの石材を用いた方が楽だろうと思うのですが)。もちろん、ほぼ一定の大きさに成形した石材を用いた石垣を持つ城もあるのですが、名古屋城など、こうした不定形の「切込み接」の石積みは数多くの城にみられるものです。
江戸時代になってからの城は、防御性よりも、いかに権威を象徴するかということに重点が置かれました。そうしたことからも、模様を織りなすような「不定形の石組み」は、ある種の装飾性を持たせるために用いられたのかもしれません。
華やかに多色を組み合わせた秀吉の時代が終わると、日本的な美しさは、再び、千利休が創案した侘茶の系譜に連なるようになります。
シンプルで、どちらかといえば色彩も単色系。金色よりも繊細なグラデーションが好まれるようになっていきます。
この石垣も、遠くから眺めれば単色のものに見えますが、近くに寄れば、石材の色に自然な濃淡があることがわかります。
そして、大小の石材が奏でるリズム。これが定型の石材で構成されていたら、もっと味気ないものになっていたでしょう。
さりげなくもあるが、決して単調ではない。
こうしたことについては、欧州のモダン・デザインよりも、日本の数寄屋の方が上手だったのではないか…
私たちが、仕事の中に「和の美」を活かしていきたいと考えている理由のひとつです。
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